ブラタモリ・下田が「開国の地」になった訳は

2018年6月2日のブラタモリは下田が「開国の地」になった訳をさぐるため、全国屈指の観光地・伊豆半島の先端にある下田をおとずれます。


下田は今から約160年前、黒船を率いたペリーの来航をきっかけに、日本で最初の開港地として「世界へ開かれた窓」になった場所です。

でも難所・天城峠の先にある、決して便利ではない町が、どうしてそんな重要な場所に選ばれたのでしょうか?

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タモリが、下田の町と海をめぐりながら、意外な歴史を解き明かしていきます。

実はペリーがやってくる前から、とんでもなく大切な港だったという下田。



重要さを解き明かすカギは、なまこ壁の建物が立ち並ぶ街角でみつけた「クランク」であきらかに?

もともとペリーは下田ではなく、もっと江戸に近い港を希望していました。

にもかかわらず、帰国する前には下田が大のお気に入りになっていたのだそう。

ペリーが下田を愛した理由を探るタモリさんの目の前に、なぜか勇壮なお神輿(みこし)が・・・!

下田の夏祭りに隠されたヒミツとは?

ペリーが日本から持ち帰った「美しい石」の正体は?


そしてタモリさんがずっと憧れだったという、下田沖、約10kmにある無人島・神子元(みこもと)島へ上陸!

約150年にわたって下田から日本の海を照らし続けた現役の「灯台」に潜入、そこでタモリさんが見たものとは!?


ペリーが下田の街を気に入った理由とは



★下田の町が栄えていた

ペリーは下田が栄えていたと日誌に書いています。

下田の街中にクランクがありました

江戸時代に下田はクランクを境に新しい町ができて行ったのです。


新しい町のおかげて下田は休息に発展しました。



下田の同心たちは下田への船の出入りの監視をしていました。

下田には江戸時代の幕府直轄の御関所御番所がおかれました

出船入船3000漕、江戸に入る船は必ず下田によることになっていたのです。


★下田の街の人たちは外国心も受け入れる気質があった

ペリーが下田が気に入った理由とは


下田の夏祭りは江戸の初期に番所の奉行が始めましたこれが下田の人の気質と性格を表しています。

日本の他の祭りと違って下田の神輿はその場にいた人が勝手に担いでよい

飛び入り参加も良い

みんなでひとつのことをやるといものでした。

下田には日本中から人が集まりました

通りすがりの旅人でも迎え入れる気質があったのです。

外国人も受け入れ態勢がある街だったのです




ペリー一行の受け入れ先は了仙寺でした。

2ヵ月滞在してペリー達は下田の町の人たちと交流した様子が巻物に残っていました。

餅つき、網引き、婦人が異人をなぶる(からかう)様子などがえがかれていました。

湊町なので外からいろんな人が入ってくる

どんな旅人も向かい入れる町だったのです

ペリー一行にとっては予期せぬ喜びでした

★ペリーは下田の美しい石も気に入った

地形地質も一役買っています

恵比寿島 凝灰岩質砂岩

火山灰が積もってできました

伊豆石と言って美しい縞模様が魅力です

隆起してきたのです


この石はペリーもお気に入りでした

石を持ち帰ったのです

ワシントンの記念塔に使われました。

★海流の難所の避難場所として下田はうってつけでした


下田沖は難所なんです 岩があって潮の流れが早い

下田沖には厄介な海流があります


黒潮の速さは世界一です

しもだ沖は海の難所でした

年によって流れが違ったりしました

海底の地形が山だらけでした

4000m級の火山があります

ぺーリーが戒告を迫った目的のひとつに捕鯨をするアメリカ船の安全確保がありました


捕鯨のための基地を作ることでした


避難場所として下田はうってつけでした


なまこ壁とは


なまこ壁とは、黒い平瓦を外壁に張り付け目地に漆喰(しっくい)をかまぼこ型に盛り上げて作る壁のこと。

なまこ壁通りは、なまこ壁を外壁に持つ建物が立ち並んでいる通りです。

道には石畳が敷かれ、明治時代ににタイムスリップしたような趣きある風景が見られます。


クランク道路


箇所では直角に2回曲がらねばならないので進行が遅くなります。

そこを待ち 受けて攻撃を仕掛けることが容易になります。

クランク状の道路は前方を遮断して遠見がききません。戦

略道路としての役割を十分に 備えているといえます。


下田港


下田港は、江戸時代から江戸に向かう船舶の寄港地として繁栄した。毎年、3000隻の千石船の入港があった。

神子元島灯台


灯台建設はスコットランド人のリチャード・ヘンリー・ブラントンの指揮のもとで、1869年春に始まった。

日本人石工200人を傭った離島での工事は難航を極めた。

下田から切りだされた伊豆石を精緻に積み重ね、目地には日本初の速成セメントが使われている。

石造灯台では日本最古の現役の灯台であり、国際航路標識協会 (IALA) が選定した「世界歴史的灯台百選」のひとつとなっている。

萩が世界遺産になった秘密とは?ブラタモリ城下町を歩く

2018年5月26日のブラタモリは

江戸の町並みが美しい城下町がいまも残り、

世界文化遺産に秘密を、タモリと林田アナがブラブラ歩きながら解き明かします!


萩は、江戸のはじめまで人がほとんど住んでいなかった土地でした。

地盤のあまりよくない「三角州」に一からつくられた町なのです。

萩が生んだ幕末の風雲児・高杉晋作旧宅の前で発見したまちづくりのすごさとは?

明治時代以降も、古い町並みが残った理由とは。

それがなんと藩校・明倫館で判明!?

謎の黒い石の正体とは?

タモリさんの名前のルーツは萩にあった!

城下町の片隅でみつけた石碑が物語る「奇妙なご縁」にタモリさんも大興奮!

萩の街始まりは?


萩の街が作られたのは関ヶ原戦い以後です。

関が原の合戦において西軍の総大将として祭りあげられた毛利輝元は隠居し、所領はすべて没収され、

改めて嫡男毛利秀就に防府、長門の2ヶ国36万石が封じられました。

そして、藩都を交通の不便な山陰の萩に移すことを命じれられたのです。


森田一義の名前のルーツが萩にあった


萩市からは4人も総理大臣が出ています。

4人目が田中義一です。

タモリの祖父は田中義一を大変尊敬していました。

そこで、名前を儀一にするつもりだったのですが、義一だと画数が頭でっかちすぎるので

字の順を反対にして一義にしたそうです。

ちなみにタモリも森田を逆にしたものです。

この萩で自分の名前のルーツを発見して大喜びのタモリでした。


萩の街の三角州地盤の強固な地盤に城下町は作られた


萩の町は、阿武川が河口近くで二股にわかれた松本川と橋本川に挟まれた三角州にあります。

この三角州は東西、南北とも3km程で、平均の海抜高度はわずか2mの低地です。

萩三角州は、阿武川が運んできた土砂によって作られたのです。

萩市はこの三角州の上にあります

土砂が溜っただけなので地盤が弱く町づくりには不向きです


ところが日本海からの強い風で砂が吹き上げられてかたまり大きな砂丘ができていました

之こそが世界遺産となった

城下町がある所以です

三角州の中では比較的地盤が強い砂丘地帯をえらびぬいて400年も続く城下町を残したわけです。

三角州の低湿地帯の使われ方は


高台は人が住む場所として使われました。

低地はどのようにつかわれたのでしょうか。

この低地があったからこそ萩の町が世界遺産になったと言います。

長州藩の学校明倫館

城下にあった武士の子弟の学校を1849年 規模拡大してこの場所に持ってきました。

広さは1万5000坪もあります。

水練池がありました。


かっての藩士たちが泳ぎを習ったプールです。

この池は水が絶えたことがないそうです。

学校ができる前はこの辺りは一面の田んぼでした。

低湿地なのです。

人が住めない低湿地がたくさんあったことが世界遺産に深くかかわっていきます。

明治になると一般的には広大な敷地を持つ武家屋敷を取り壊して、そのあとに官公庁などの公共施設が建設されました。

萩には低湿地帯がたくさんあったのでそこに官公庁などの公共施設が建設されました。

結果的に武家屋敷が保全されました。

安山岩が基礎に使われたわけは


安山岩が建物の基礎にいたるところで使われています。

風化しにくい安山岩を使うことで街並みが遺されました。

対岸の海岸に石切り場がありました。

船で運ぶことができたのです。

この辺りの海には平らな島がたくさんあります。

全て火山です。

阿武火山群です。

火山の恩恵が海の中にもあります。

海中の溶岩は海産物の絶好の住処となります。



萩市の世界文化遺産とは



 平成27年7月に開催された第39回ユネスコ世界遺産委員会において、萩市の5つの構成資産を含む「明治日本の産業革命遺産―製鉄・製鋼、造船、石炭産業―」が世界遺産に登録されました。

萩市の5つの構成資産

○萩反射炉  

萩反射炉は、西洋の設計図を持たなかった萩(長州)藩が、地元の材料及び伝統的な技術により鉄の溶 解施設の建造を目的として試作したものの、実用には至らなかった施設であり、当時の日本及び萩(長州) 藩が急激な産業化に対応しようと「試行錯誤した産業化初期の象徴」となる建造物である


○恵美須ヶ鼻造船所跡   

恵美須ヶ鼻造船所跡は、萩(長州)藩が海防への危機意識から軍備拡充を進めるために、開国直後の情 報が限られた状況下において、異なる2つの国の洋式造船技術によって「丙辰丸」と「庚申丸」という2隻の 木造帆走式洋式軍艦を建造した造船所の遺跡である

○大板山たたら製鉄遺跡  

○萩城下町

「萩城下町」は、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元が、阿武川河口の三角州上に築いた萩城とその城下 町の遺構です。

①萩城は指月山とその山麓に築造された城郭で、萩城跡には往時の建造物は残って いないが、石垣・堀はほぼ完全に残っている。

②旧上級武家地のほぼ全域では、萩(長州)藩重臣の広大 な屋敷割が、明治維新後に旧士族への授産のために開墾された夏みかん畑とともに近代住宅の敷地へ と姿を変えながらも良好に残り、各屋敷地を区画する土塀・石垣が今日まで受け継がれてきました。

③旧町人 地は、御用商人及び中・下級武士の居住地が存在した区域であり、武家屋敷及び商家の町並み・景観が 良好に残っています。

萩市の位置と鉄道


大正末期に開通した山陰本線は、三角州を避けて大きく迂回しました。

そのため城下町は鉄道敷設と駅前市街化による都市化の波に晒されることがありませんでした。

萩市が松本川、橋本川に囲まれた三角州にあることも市街化圧力に対する外堀となりました。


ブラタモリが明かす浄蓮の滝と天城随道の秘密とは

2018年5月19日のブラタモリはタモリと林田理沙アナが浄蓮の滝と天城随道に潜む秘密を明かします。

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伊豆の名産品といえばワサビが有名ですね。

ブラタモリはワサビと伊豆随一の観光名所“浄蓮の滝”との意外な関係を、ワサビ田の中に潜入して明かしていきます。

地元ならではのワサビの食べ方に、タモリも思わず涙?

さらに険しい九十九折りの山道に歩いて挑むタモリは、重要文化財にもなっている明治のトンネル「天城随道」へ向います。

その入り口にある大きな石が明らかにする、伊豆の人たちの知られざる戦いの痕跡とは?

91歳が語る天城越え秘話にタモリさんも感激!


浄蓮の滝のワサビの秘密とは


浄蓮の滝は深い樹木が生い茂る中にある、玄武岩の崖に高さ25m、幅7mの滝です。

山の冷気と水しぶきで夏でも肌寒いほどです。


渓流沿いには天城名物のわさび田が続いています。

ワサビはアルカリ玄武岩の地層から湧き出るミネラル水により美味しく育ちます。

水温が12~13度でないとワサビは育ちません。

この恵を求めて人々は険しい山中に分け入りました。

ワサビ沢の分布図を見ると天城山の周囲の谷間にあります。

ワサビに最適な環境を求めて歩いた結果道がひらました。

ワサビに砂糖、鰹節、醤油と混ぜ合わせます。

ご飯に載せていただきます。

天城峠にこれから入ります。

どうして昔の人は天城を超えたかったのでしょうか。

天城越えが難所になった理由は

道の側面の崖から医師が崩れ落ちてきています。

この辺は標高600mですが昔は海底だったのです。

天城山は海底火山が隆起したうえにできた火山だったのです。

海底火山があまりにも高く隆起したために崖崩れが起きやすくなっています。

それが天城越えを難所にしています。

崩落がおこるのでルートが何度も変わっています。

天城随道の秘密とは


天城随道は正式名称を天城山隧道(あまぎさんずいどう)と称します。

伊豆半島の北と南を分ける天城山は交通のうえで大きな妨げとなっていました。

そこで総工費10万3,016円という当時としては多くの金額を費やし、明治38年(1905年)に伊豆市(旧天城湯ヶ島町)と河津町をつなぐトンネルとして天城山隧道が開通しました。

全長445.5メートルの切り石で建造された日本初の石造道路トンネルです。

幅員は3.50メートルと非常に狭く、側溝まで含めても幅は4.10メートルしかなく、一般車両のすれ違いはまず不可能です。

このトンネルはそれまで分断されていた南伊豆と北伊豆を結ぶ歴史的大事件でした。

使われている石は35000個以上、完成までに4年かかりました。

トンネルの北側の石を見ると天城越えをしたかった理由が見えてきます。

南側の石はもろい凝灰岩、北伊豆側の石は黒くて硬い玄武岩でした。

何故北伊豆川に立派な石を使ったのでしょう。

このトンネルは南伊豆の人たちが北側に抜けるトンネルだったのだろうと推測しました。

明治22年に東海道線が開通しました。

南伊豆の人たちは陸の孤島を脱却したかったのです。



天城越えをなぜ昔の人はしたのか?ブラタモリ

2018年5月12日のブラタモリは伊豆半島の険しい天城連山を昔の人々が超えたかったわけを探りました。

石川さゆりの名曲「天城越え」の歌詞は女性の情念の叫びともいえるような言葉がつづられていますね。

なにしろ不倫した相手に抱かれ、這ってでも超えたい天城越えなのです。


石川さゆりの「天城越え」の意味は


石川さゆりが歌う天城越えの女性は何故這ってでも天城越えをしたかったのか?

不倫した相手を恨んでも、一緒に険しい天城峠をこえさえすれば、相手の女は追いかけてこれないとおもったのでしょうか。

今なら険しい道でも車で行けばあっという間に超えれる天城峠です。

と言っても年間降雨量が4000mmの日本一の降雨地帯です。

豪雨の中九十九折の車の運転は初心者には厳しいでしょう。

増して冬ともなれば緯度が高いだけに積雪に見舞われることも多々あります。

今も車が珍しかった昔も天城越えは難所と言えます。

「天城越え」の歌詞をみれば「天城隧道」を通っています。

この「天城隧道」は女性一人では恐ろしくて通れないでしょう。

下田街道414号線沿いにあるこの天城山隧道 (旧天城トンネル)は、だれもが目に付き、その雰囲気に飲まれるようです。
行きに帰りにここを通っていますが、入ってみたいと思ったことは一度もありません。
薄暗いというより暗いの一言。全く先が見えない恐ろしさを感じます。
行かれた方の感想読んでもです。
トンネル作りに携わった方々の刹那さが漂っている感じです。


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となると石川さゆりの「天城越え」の意味は 不倫相手の女を振り切ってしまわせようという意味と思われます。

昔の人は険しい天城越えを何故したのか


江戸時代の旧天城峠は文政2年(1819)に豆州・梨本村の名主であった板垣仙蔵が私財を投じて開通させた天城越えのルートです。
 
頂上に二本の杉の大木があることから二本杉峠と呼ばれています。


二本杉峠は標高820mですからかなり厳しい山越えです。

明治37年(1904)に旧天城トンネルが完成するまでは三島と下田を結ぶ天城峠越えの幹線道路でした。

こんな険しい道を超えてまで昔の人が天城越えをした理由はブラタモリは解き明かしました。


天城の語源は雨の木です。

天城山は標高が高いため

太平洋からやってくる

湿った海風が吹き付け

山頂に雨雲ができ安くなります

天城は年間降水量は4000mm以上で日本屈指の多雨地帯なのです

江戸時代、この雨が質の良い木材の大供給地になりました

だからこそ人々はあえて険しい山の奥に分け入るようになりました。



天城越えもう一つの恵とは



昔の人が天城越えもう一つの恵についてもブラタモリは解き明かしました。

天城の更なる恵とはそれは山の奥にあるいいます。



作詞家 吉岡治  作曲家 弦哲也  石川さゆりの3人は

湯ヶ島の白壁荘に3日間滞在し天城越えの道を歩きながら「天城越え」を作りました

作詞の先生が天城峠を歩いていくとどんどん詞が増えて行って

作曲していくとまた詞が増えて

「恨んでも恨んでも 体裏腹」あたりの3行が増えてきて どんどん盛り上がってきたと女将が振り返りました。


「体が言うことを聞かないのということですね」とタモリ

リンダアナが大笑いしましたが

「タモリはこの人わかっているんだろうか」?という目線を送りました

「この凄い歌詞が生まれたのも天城山の恵ともいえるのです」とプロデューサー


どんどん超えたくなってきたタモリです

天城越えの坂に入ってきました

浄蓮の滝の恵とは「わさび」 でした。



江戸時代の中ごろに栽培が始まった伊豆の名産品です

江戸に握りずしブームが増えたときに一気に需要が増えました

山が多くて農産物が育ちにくい伊豆の貴重な収入源となっていました


現在でも生産量は全国の4割りを占めています

この辺りは伊豆のわさび栽培が始まった歴史的場所とか




浄蓮の滝は1万7000年前に流れてきた溶岩が作った滝です。

溶岩があることもわさびにとって重要なことなのです。

溶岩にはたくさん亀裂があるので雨がそこに染み込んだ水が無数にシミ出してくる湧き水

わさびは溶岩からの湧き水が必要なのです。

城越えをなぜ昔の人はしたのか?ブラタモリ


石川さゆりの名曲「天城越え」の女性がなぜ天城越えしたかったのかは

天城山山の険しさが関係していました。

昔の人が「天城越え」をしたのは銘木とわさびを求めてのことでした。

人間は環境が厳しくても情熱・情念があればやり遂げる生き物なのですね。

タモリとリンダアナのブラタモリの人気の裏側は?台本あっても知らない2人

ブラタモリのチープ・プロデューサーの中村貴志によると

タモリには台本のようなものは一切渡していないそうです。

だからはどんなテーマのロケなのかもよくわからない状態で収録に臨んでいるわけです。

当然タモリのアシスタントのNHKアナであるリンダアナこと林田理沙アナも台本を全く知りません。

ブラタモリのアシスタントはNHKのアナウンサーなのですが、アナウンサーの仕事はしないのです。

タモリのアシスタントなのです。

番組進行役のタモリについて行ってタモリをアシスタントするのです。

進行方向は決まっていてスタッフの台本はあります。

タモリでも知らないような情報を先生などが少しずつ解説していってタモリが知識を積み重ねていきます。

時にタモリのアドリブの連続で町の魅力を紹介してくわけです。

視聴者を楽しませるのはNHKのアナウンサーであるアシスタントの役割でもあります。

此処だけはタモリとの連帯責任です。

このようなアシスタントの仕事を数十回も続けるとどうなるでしょうか。

視聴者はアシスタントの成長も楽しみながらブラタモリが紹介する街の魅力を知ることになります。

ブラタモリのアシスタントは結果として、紅白の司会もあさイチのキャスターもこなせる実力がつくわけですね。

報道アナとしてニュースの内容を知らせるだけでなく、視聴者をどうしたら楽しませることができるかというアドリブ力が備わったわけです。


タモリの番組の進め方



ブラタモリはタモリらしいユルいノリのまま番組が進行していきます。

アシストする女子アナも、積極的にレポートするということはありません。

なにしろこの番組の女子アナはリサーチ禁止、打ち合わせナシ、台本は渡さずという厳しい規制の中で仕事をしているのです。

おまけにタモリから「仕事をするな」とまでいわれています。

こうなるとアシスタントはタモリの繰り出すアドリブを楽しみながら街の魅力を学ぶのが役割ともいえましょう。


アシスタントの成長に関わるタモリ


タモリはリンダアナに歴対゛アシスタントに言ってきたように

「仕事をするな」

とだけ言ったそうです。

あとは放任です。

冷たい放任ではなく、成長を見守る放任ですね。


リンダアナにはどのように成長してほしいか


紅白歌合戦もマンネリ化していると言われて久しいです。

タモリは最近の紅白の司会をことわっています。

リンダアナは音楽大の卒業で絶対音感の持主と言われています。

視聴者がより楽しめる音楽番組の在り方についても関わるでしょう。

音楽通としてのタモリの良いところも吸収してほしいものです。

良質で楽しい音楽番組の製作にもかかわってほしいですね。


有働アナの後任としてあさイチのキャスターに抜擢された近江アナのルートもあるでしょう。

有働アナは行動力があり過ぎて多くの物議を巻き起こしましたが、

多くの視聴者を楽しませてくれました。

<関係記事>

リンダこと林田理沙アナのブラタモリでのかわいい集!!

リンダこと林田理沙アナのブラタモリでのかわいい集!!

ブラタモリのアシスタントあなうかさーのリンダこと林田理沙アナのかわいい賛美がとまりません。

4月21日に放送された「ブラタモリ」(NHK総合)に、“5代目”アシスタントアナウンサーとして林田理沙アナが初登場したばかりです。

年令は28才なのですが、東京藝術大学大学院音楽研究科修了ということで2014年4月にアナウンサーとしてNHK入局しました。

アナ歴4年目になるリンダこと林田理沙アナですが、

近頃初々しさで視聴者に絶賛される存在とは隠れた実力の持主かも知れません。

まだ放送3回目ですがリンダアナのそのかわいいと言われる事例を集めてみました。


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ブラタモリ初回のリンダこと林田理沙アナのかわいい集


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4月21日に放送された「ブラタモリ」が林田理沙アナウンサーのパートナーデビューの日でした。

この日のブラタモリは、京都へ行きました。

京都・東山をタモリとブラブラ歩きながら“美しきニッポン”の謎に挑みます。

林田理沙アナは樹齢「500年」を「500円?」と聞き間違えたり、

「断層崖」を「だんそんがいですか?」と聞き直したりしました。

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SNSではこれを受けて林田理沙アナの容姿がかわいいだけに まじめ・美人・かわいいと絶賛の嵐でした。

4月28日のブラタモリでのリンダこと林田理沙アナのかわいい集


春の京都・東山を舞台に、タモリがブラブラ歩きながら“美しきニッポン”の壮大な謎に挑む第2弾です。

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琵琶湖疏水(びわこ そすい)とは、琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、明治時代に作られた水路(疏水)です。

琵琶湖疏水は京都と滋賀の冗談で. 「琵琶湖疎水の水止めるぞ!」 なんていうものがあるそうです。

琵琶湖の湖水を西隣の京都市へ流すため、明治時代に作られた水路(疏水)なので京都にとっては死活もんだいとなります。

それでも地元の人しか知らないでしょうね。

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28才の女性に初々しいというのもなんですが、美人だから初々しいのでしょう。

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林田理沙アナは天然で音楽大卒ですからね。

そんな人をわざわざブラタモリに持ってきたNHKのおもうつぼです。

でも最初だけで本領発揮すると・・・。



5月5日のブラタモリでのリンダこと林田理沙アナのかわいい集


5月5日のブラタモリは茶どころ・京都の宇治へ行きます。

宇治がお茶で天下に知られるようになった理由を、タモリが地形や地質をヒントに町を歩いて解き明かします。

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美人で初々しいと着てるものまで可愛くなっちゃうのです。

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タモリがかろうじて回した臼ですからね。

ピクリともしませんでしたね。

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そろそろ本領発揮か?

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主役はタモリは72才、年齢差44才ですから。

リンダこと林田理沙アナのブラタモリでのかわいい集!!まとめ


内容が一般の人も知らないような専門的なことですから、それを知る楽しさが番組の売りでもあります。

リンダアナがボケてくれないと単なる教養番組になってしまいます。

しばらくは初々しい天然でいてほしいものです。