萩が世界遺産になった秘密とは?ブラタモリ城下町を歩く

2018年5月26日のブラタモリは

江戸の町並みが美しい城下町がいまも残り、

世界文化遺産に秘密を、タモリと林田アナがブラブラ歩きながら解き明かします!


萩は、江戸のはじめまで人がほとんど住んでいなかった土地でした。

地盤のあまりよくない「三角州」に一からつくられた町なのです。

萩が生んだ幕末の風雲児・高杉晋作旧宅の前で発見したまちづくりのすごさとは?

明治時代以降も、古い町並みが残った理由とは。

それがなんと藩校・明倫館で判明!?

謎の黒い石の正体とは?

タモリさんの名前のルーツは萩にあった!

城下町の片隅でみつけた石碑が物語る「奇妙なご縁」にタモリさんも大興奮!

萩の街始まりは?


萩の街が作られたのは関ヶ原戦い以後です。

関が原の合戦において西軍の総大将として祭りあげられた毛利輝元は隠居し、所領はすべて没収され、

改めて嫡男毛利秀就に防府、長門の2ヶ国36万石が封じられました。

そして、藩都を交通の不便な山陰の萩に移すことを命じれられたのです。


森田一義の名前のルーツが萩にあった


萩市からは4人も総理大臣が出ています。

4人目が田中義一です。

タモリの祖父は田中義一を大変尊敬していました。

そこで、名前を儀一にするつもりだったのですが、義一だと画数が頭でっかちすぎるので

字の順を反対にして一義にしたそうです。

ちなみにタモリも森田を逆にしたものです。

この萩で自分の名前のルーツを発見して大喜びのタモリでした。


萩の街の三角州地盤の強固な地盤に城下町は作られた


萩の町は、阿武川が河口近くで二股にわかれた松本川と橋本川に挟まれた三角州にあります。

この三角州は東西、南北とも3km程で、平均の海抜高度はわずか2mの低地です。

萩三角州は、阿武川が運んできた土砂によって作られたのです。

萩市はこの三角州の上にあります

土砂が溜っただけなので地盤が弱く町づくりには不向きです


ところが日本海からの強い風で砂が吹き上げられてかたまり大きな砂丘ができていました

之こそが世界遺産となった

城下町がある所以です

三角州の中では比較的地盤が強い砂丘地帯をえらびぬいて400年も続く城下町を残したわけです。

三角州の低湿地帯の使われ方は


高台は人が住む場所として使われました。

低地はどのようにつかわれたのでしょうか。

この低地があったからこそ萩の町が世界遺産になったと言います。

長州藩の学校明倫館

城下にあった武士の子弟の学校を1849年 規模拡大してこの場所に持ってきました。

広さは1万5000坪もあります。

水練池がありました。


かっての藩士たちが泳ぎを習ったプールです。

この池は水が絶えたことがないそうです。

学校ができる前はこの辺りは一面の田んぼでした。

低湿地なのです。

人が住めない低湿地がたくさんあったことが世界遺産に深くかかわっていきます。

明治になると一般的には広大な敷地を持つ武家屋敷を取り壊して、そのあとに官公庁などの公共施設が建設されました。

萩には低湿地帯がたくさんあったのでそこに官公庁などの公共施設が建設されました。

結果的に武家屋敷が保全されました。

安山岩が基礎に使われたわけは


安山岩が建物の基礎にいたるところで使われています。

風化しにくい安山岩を使うことで街並みが遺されました。

対岸の海岸に石切り場がありました。

船で運ぶことができたのです。

この辺りの海には平らな島がたくさんあります。

全て火山です。

阿武火山群です。

火山の恩恵が海の中にもあります。

海中の溶岩は海産物の絶好の住処となります。



萩市の世界文化遺産とは



 平成27年7月に開催された第39回ユネスコ世界遺産委員会において、萩市の5つの構成資産を含む「明治日本の産業革命遺産―製鉄・製鋼、造船、石炭産業―」が世界遺産に登録されました。

萩市の5つの構成資産

○萩反射炉  

萩反射炉は、西洋の設計図を持たなかった萩(長州)藩が、地元の材料及び伝統的な技術により鉄の溶 解施設の建造を目的として試作したものの、実用には至らなかった施設であり、当時の日本及び萩(長州) 藩が急激な産業化に対応しようと「試行錯誤した産業化初期の象徴」となる建造物である


○恵美須ヶ鼻造船所跡   

恵美須ヶ鼻造船所跡は、萩(長州)藩が海防への危機意識から軍備拡充を進めるために、開国直後の情 報が限られた状況下において、異なる2つの国の洋式造船技術によって「丙辰丸」と「庚申丸」という2隻の 木造帆走式洋式軍艦を建造した造船所の遺跡である

○大板山たたら製鉄遺跡  

○萩城下町

「萩城下町」は、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元が、阿武川河口の三角州上に築いた萩城とその城下 町の遺構です。

①萩城は指月山とその山麓に築造された城郭で、萩城跡には往時の建造物は残って いないが、石垣・堀はほぼ完全に残っている。

②旧上級武家地のほぼ全域では、萩(長州)藩重臣の広大 な屋敷割が、明治維新後に旧士族への授産のために開墾された夏みかん畑とともに近代住宅の敷地へ と姿を変えながらも良好に残り、各屋敷地を区画する土塀・石垣が今日まで受け継がれてきました。

③旧町人 地は、御用商人及び中・下級武士の居住地が存在した区域であり、武家屋敷及び商家の町並み・景観が 良好に残っています。

萩市の位置と鉄道


大正末期に開通した山陰本線は、三角州を避けて大きく迂回しました。

そのため城下町は鉄道敷設と駅前市街化による都市化の波に晒されることがありませんでした。

萩市が松本川、橋本川に囲まれた三角州にあることも市街化圧力に対する外堀となりました。


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